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標本箱。

文章が書きたくなったとき。閉じこめる。

 

凄く大切な人について、生きてるだけでいい。と思う時がある。

 
生きてるだけで、友達に囲われて、たまにお酒を飲んで楽しい気持ちになって、

 

出来たら音楽を続けてくれて、出来るだけその人にとって楽しい瞬間が多ければ嬉しいなと思う。

 

人に生きてるだけでいい。と言われる時がある。

 

捻くれた私は

「生きることがどれだけ大変な事か分かってるのか。」

と思う。

 

お前は私が生きていく為に何をしてくれるのか、


お前に私の生活の、人生の何が分かるのか、と心の中で苦虫を噛みながら「ありがとう。」と言うのである。

 

人の幸せを願いながら、他人に幸せを願われて、


他人の幸せを願う事と、他人に優しくすることは意図せずとも相手より上に立ってしまう事なのではないかと考えるのだ。


自分自身に余裕が無いと人に優しく出来ないとよく言うものだし、

 

この感情は相手を想ってると見せかけて、ただ自分が安心したい、自己中心的ものなのではと罪悪感に苛まれていくのである。


きっと大多数からは「考えすぎだ、自意識過剰だ」と言われるだろう。


世間一般の「普通」と呼ばれる人達は幸せや不幸の意味とか、優しさの意味なんて常日頃考えないのかもしれない。


もしかしたら考えているのに、苦しんでいるのに、

 

何も考えて居ないようにあたかも幸せそうに生きているのだろうか。


そうだとしたら、
みんな我慢しながら生きているのだとしたら、偉すぎませんか?

 

なんて、

蟻地獄のように
常に空中に漂っている薄い紫色の霧のように
考えたくも無いのに考えてしまう自分は、

社会不適合だからこそなのかもしれないなと思いつつ

 

「死にたい」と「生きたい」はほぼ同意義なんだと感じながら私は今日も息ている。

 

自分の理想と自死願望の水が、片方が溢れないように理想を増やしながら毎日を積み重ねていく中でも

 
どうして自分は苦しい思いをしなければいけなかったのか、
なんでここまで苦しい思いをしなければならないのかと自問自答し、

 


そんな中でも自分の多分好き、である仕事だけには向かい、
(好きだから仕事だとは思っていないし仕事とまだ呼べるものでは無いかもしれない、そもそも当たり前の延長にある仕事だから好き、と呼ぶのも違うのかもしれないそしてまた普通と呼ばれる人達が何も考えず行う一つの事象にここまで囚われる私はまた社会不適合なのではというループに囚われるからどうしようもない)

 

勢いで終わってしまいそうだった人生の昨日に時間の経過と共にさよならをして向かった打ち合わせで
思いがけず会うことができた16歳の頃の自分が大好きだった人に、
(今も勿論好きだけど好きの種類が違う)

 
「傷ついたら 誰かが傷つくのを防ぐことができる。」

と言われ、

私は救われた。

 

確かに救われたんです。

 


その人がどのくらいの思いと重いでかけた言葉か分からないし、


もしかしたらというより多分私が受け取った重みより軽いボールを投げたつもりかも知れないけれど、


人を救う言葉なんて重いも軽いも関係なくて


行き場のない苦しみを引きずりながら毎日を生きる私には十分過ぎるくらいの救いで、許しだった。

 

 

 

 

大丈夫だと言えるほど君の人生に出来ることは無いけれど、


君の明日がどうか今日より少しでもいいものに成るように祈らせてください。

 

 

 

もっと世界に息をする重みを。

 

 

 

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